英国法は解剖学者に処刑された殺人犯――年に100人にも満たない――の遺体のみ合法的に解剖することを認めていたが、増え続ける解剖学校の需要にはとても足りなかった。そこで「復活人(レザレクショニスト)」たちが埋葬されたばかりの墓を掘り起こし、死体を医学校に売った。この商売が終わったのは、エディンバラのバークとヘアが1828年に標本として売るため少なくとも16人を殺害した事件がきっかけで、英国は1832年に無縁遺体の提供を合法化する解剖法を制定した。
死体盗掘人はもう存在しない。何がこの仕事を消し、どの職業がその席を取ったかを整理した。
解剖学、戦場、そして科学的外科の誕生
アンドレアス・ヴェサリウスが1543年に刊行した解剖図譜は、千年来の文献を鵜呑みにせず自ら解剖を行った成果であり、外科医に初めて正確な身体の地図を与えた。アンブロワーズ・パレの戦場での革新と、伝承された教条よりも証拠と実験を重視したジョン・ハンターの姿勢は、外科を手仕事から証拠に基づく科学へと変え始めた。同時期、解剖用死体への需要は1830年代まで続く盗掘死体の闇市場を生んだ。
同じ時期に起きていたこと
ロンドンのセント・ジョージ病院で、ジョン・ハンターは馬車御者の膝窩動脈瘤を、当時標準的でしばしば致命的だった切断術ではなく、損傷部よりかなり上方で動脈を4本の別々の結紮糸で縛る方法で治療した。患者は6週間後に退院し馬車の仕事に復帰し、この「ハンター式結紮法」はその後一世紀以上にわたり標準治療となった。
マサチューセッツ総合病院の手術室で、歯科医ウィリアム・モートンが患者に吸入エーテルを投与し、外科医ジョン・コリンズ・ウォーレンが顎の腫瘍を切除した。ウォーレンは呆然とする聴衆に「諸君、これは詐術ではない」と語ったと伝えられ、無痛手術の知らせは数週間のうちにヨーロッパへ届いた。
ルイ・パスツールの細菌説を読んだジョゼフ・リスターは、グラスゴー王立病院で創傷にフェノール(石炭酸)を用いた処置を始め、致命的な創傷敗血症の劇的な減少を『ランセット』誌に発表した。当初は嘲笑され――一部の外科医は経験の証しとして過去の患者の乾いた血で固まった上着を着て手術し続けたほどだった――が、その手法は二十年のうちに標準となった。