外交官、1350年のアマルナ文書
進路のしおりで外交官を書くとき、最初の文はすることだ。年は1350年、行は「アマルナ文書」、現場の数は380。求人票の給与欄を、仕事の中身に置き換えない。古代の王の使者やヴェネツィアの常駐大使から、ウィーン会議、そして国連まで――今なお一語一語を練り上げて平和を交渉し続ける仕事。 職業の文章は、入る経路と、一日の技術と、責任が終わる場所を分ける。外交官は1350年の「アマルナ文書」でそのうち一つを言い、数380をその言葉だけに付ける。日本の読者は求人で職業に先に会うので、歓迎条件を歴史として書かない。資格と慣習と道具は別の文だ。一つの文の数を、別の文の年収のように読まない。
「(外交官)」はギリシャ語の(二つ折りの文書)に由来する。かつてローマの旅人に発行された公的な通行証のことで、書類と儀礼、そして慎重に選ばれた言葉の上に成り立つこの仕事の起源としてふさわしい。この一語が生まれるはるか以前から、青銅器時代のエジプトとメソポタミアの支配者たちはすでに使者や贈り物、格式ばった書簡を交わし、遠く離れた王を「兄弟」と呼びかけながら、戦争や婚姻、交易をめぐる争いをいちいち戦火に持ち込まずに処理していた。 この仕事に至る唯一の道筋というものは存在したことがない。歴史上もっとも有能だった外交官の中には、試験を経て昇進した職業官僚もいれば、商人や聖職者、将軍、貴族が一度限りの使命のために駆り出された例もある。どの時代にも共通するのは同じ基本機能――政府に代わって海外で発言し、実情を正直に本国へ報告できる、信頼された仲介者の存在だ。他国の真意に目を閉ざした政府は、いずれ壊滅的な過ちを犯すことになる。
このページでは、アマルナ文書とヴェネツィアが先駆けた常駐大使制度から、ウィーン会議のタレーラン、そして1961年のウィーン条約に至るまでの歩みをたどる。今日実際に各国の外務省へ入るにはどうすればよいか、一つの赴任地で日々何が求められるか、この職業の頂点に立った人物は誰でどうやってそこに至ったか、そして電文の下書きから相手国の真意を読み取ることまで、どこまでを機械が肩代わりできるのかを扱う。 ほぼ例外なくそうだが、要件は国によって異なる。ほとんどの外務省は母語以外の少なくとも一言語の流暢さを要求または高く評価しており、非英語圏への赴任には通常、事前に有給の語学研修が伴う。たとえば米国務省の外務語学研修所は、最も習得が難しい言語について数か月から二年近くに及ぶ集中コースを、赴任前の職員に提供している。
米国では外交官職員試験と呼ばれ、職務知識・英語運用力・自己紹介文からなる筆記試験に始まり、合格者はさらに実際の外交場面を模した終日の口述評価に臨む。合計の合格率は歴史的に一桁台前半から6%程度で推移しており、政府系の登用試験の中でも屈指の狭き門となっている。 外交特権とは、1961年のウィーン外交関係条約に成文化された法的保護で、赴任先の国において認可された外交官を逮捕・訴追・大部分の課税から守り、大使館の施設・公文書・外交行嚢を不可侵とするものだ。これは受入国が外国政府の代表者を脅すことでその政府に圧力をかけられないようにするためのものであり、個人的な特典ではない。
外交官を言うとき1350年、「アマルナ文書」、380を残す。年収の数字はその三つの代わりではない。 職業の文章は、入る経路と、一日の技術と、責任が終わる場所を分ける。外交官は1350年の「アマルナ文書」でそのうち一つを言い、数380をその言葉だけに付ける。日本の読者は求人で職業に先に会うので、歓迎条件を歴史として書かない。資格と慣習と道具は別の文だ。一つの文の数を、別の文の年収のように読まない。1350年
残す数字
- 基準の年
- 1350年
- 仕事の数
- 380
- 職業の名
- 外交官
- 業務の行
- アマルナ文書